いらないものを、きちんと捨てる

いらないものは捨てる。

 

当たり前のことのように見えるが、これができていない人はきっと多い。

物であれ、習慣であれ、思い込みであれ。

 

まず「いる」と「いらない」に分ける基準を自分の中で確立しないといけない。

そのためには「どんな生活を送りたいか」をまず決めてみるのが早いかもしれない。

私の場合は「ゆっくり時間を味わう生活を送る」と決めたので、その生活に必要なもの以外は捨てることにした。

 

・英語の勉強

毎日決まった時間にオンラインレッスンを受けていたが「間に合うように起きなければ」と追い立てられ、ゆっくり時間が味わえないので退会した。

今、時間をゆっくり味わうためには、未来の目標も必要ない。

気が向いた時にだけ好きなように勉強することにした。

 

・編みかけのセーター

パーツは全て編み上がり、あとはアイロンをかけてはぎ合わせるだけだったが、完成させなければとプレッシャーを自分にかけてしまうので捨てた。

どんどん編んでいくのが好きで、はぎ合わせる作業は好きじゃないのだ。

楽しいところだけ、ゆっくり楽しめばいい。

 

・惰性の人間関係

なんとなく暇だから、人恋しいから、という理由で人と会うのをやめた。

会いたい人に、会いたい時だけ会えばいい。

どうでもいいLINEにも返信しないことにした。

ゆっくり味わいたい時間だけ、過ごそう。

付き合いが悪いと思われるくらいで丁度いい。

 

どれも今までは自分が好きで選んでいると思っていた。

でも望む生活がはっきりすると、本当に必要なものはとてもシンプルだとわかる。

潔く捨ててみると頭がすっきりする。

そして、幸せを感じられる余白が増える。

きっと余計なことを考えすぎていたのだ。

 

本当に望むものにだけエネルギーを注いで、どんどん私好みの世界を創っていきたい♡

できないことは、できないからいい

つくづく私はマルチタスクが苦手だ。

 

コンロは3口あるが、同時に2つ以上の鍋を加熱していると、だいたいどれかの存在を忘れて焦がすか吹きこぼす。

電車に乗るといつの間にか考え事を始めてしまい、気づいたらだいたい降りる駅を過ぎている。

時間を確認しようとスマホを取り出したのに、通知を目にするとそれだけ確認して画面を閉じてしまい、後で思い出してまた開く。

「あれ、何しようと思ったんだっけ…」と毎日たぶん5回以上は呟いている。

 

よくこれで会社員をやっているなと自分で思うし、仕事中もよくヒヤヒヤしている。

段取り良く仕事をこなしていくのは好きだが、途中で色々と抜けがちなのだ。

もう少しだけ脳のキャパシティが大きくあってくれたら便利なのに、とは思う。

 

ただ「できない」ということはひとつの長所だと感じている。

なんでもできてしまう人は「可愛げがない」と言われるが

(そういう人はおそらく、できないことに気づいていないか認めていないだけだと思う)、

「可愛げ」とは「できないこと」なのである。

できないことを認めてしまえば、失敗するたびに馬鹿な自分を愛しく思える。

 

そして、私のように「複数のことが同時にできない」ということは、逆に言えば「ひとつに集中することに向いている」ということだ。

向いていることをすべき、とも思わないけれど、自分の得意不得意を認めておけば人生はだいぶ生きやすいと思う。

私の場合は、無理に複数のことをすると自分に負荷がかかりすぎてしんどいので、なるべくそういう場面を減らしている。

ひとつひとつをゆっくり味わうほうが好きだし、幸せを感じられるのだ。

 

自分の得意なことを人は探しがちだけれど、自分の「できないこと」を見つけて認めてみるというのも、とても有効だと思う。

「できること」より「できないこと」のほうが往々にして身近にある。

「なにもできない」と自分を責める前に、自分の可愛い「できないこと」を積極的に認めてみると、以外と人生はシンプルかもしれない。

新しい世界観を採用する

「人生は一度きり」

 

当たり前のことのように語られるフレーズだが、果たして本当だろうか。

この人生を終えた後に別の人生があるかないかは、死んでみないとわからない。

 

だとしたら

「人生は何度でも生きられる」

という世界観を採用して生きることもできる。

そしてこの世界観は「ゆっくり時間を味わう」生き方ととても相性がいいのだ。

 

「人生は一度きりなのだから、好きなことしないともったいない」という世界観だと、その人の持っている時間は有限である。

「やりたいこと」リストを作成して優先順位をつけ、人生の残り時間を計算して割り当て、こなしていくだろう。

1つ1つの「やりたいこと」は、その時にしっかり味わい尽くさないと、もう二度とできない。

なぜなら残りの時間には他の「やりたいこと」が詰め込まれているからだ。

いつしか目的は楽しむことではなく、「やりたいこと」リストを計画通り消化することにすり替わる。

そして人生で一度の経験を味わいつくすため、必死の形相で1つ1つの「やりたいこと」に臨むことになる。

 

「人生は何度でも生きられるから、好きなことをしたらいい」という世界観では、時間は無限にある。

その時にやりたいと思いついたことをやればいい。

やってみて楽しかったら、何度でも飽きるまでやればいいし、飽きたらまたその時に思いついたことをやればいい。

計画なんて必要ない。なぜならこの人生が終わっても、いくらでも時間はあるのだから。

1つ1つの経験を、余裕を持って心ゆくまで味わえる。

死ぬその瞬間まで「生まれ変わったら、あの場所にもう一度行こうかな」とか「今度の人生ではこれをやってみよう」とか、楽しく妄想しながら死ねるのだ。

 

「もし死んで実際そこで終わりだったらどうするんだよ!」という声も聞こえてきそうだ。

でももし死んで終わりだったとしたら、やり残したことを悔やむこともできない。

こうしておけばよかった、と反省することもない。

もう死んでいるのだから。

それならば生きている時間を、余裕と希望を持ってゆったり過ごす方が幸せじゃなかろうか。

血眼でノルマをこなすよりも。

 

以上の理由から、私は「人生は何度でも生きられる」という世界観を採用して生きている。

世界にはいろいろな宗教があるが、なんであれ自分が今幸せに過ごせるものを勝手に採用すれば、世界は平和だと思う。

人生の目的は「幸せに生きること」以外にありえないのだから。

本が読めるようになった

本が読めるようになった。

 

最近、英語の勉強のために動画配信サービスに登録しようとしたのだが「動画を流し見てるだけの人生って虚しいな…」とふと感じた。

じゃあ、虚しくない過ごしかたって、どんなものだろう?

考えてみた時に、私の答えは「ゆっくり時間を味わうこと」だった。

 

効率良く時間を使わなければ、というプレッシャーを自分にかけて生きていることには薄々気づいていた。

おそらく、きっかけは大学受験。

高校までは特に勉強していなかったが、大学で初めて、自分の実力より上の志望校を設定した。

絶対に行きたい、というほどではなかったが「受験生なのだから勉強しなければ」という意識を常に持って生活するようになった。

受験が終わってからも「時間を無駄にしてはいけない」というプレッシャーは、30歳を過ぎた今まで、なんだかずっと自分から外せずにいた。

 

それが今回、自分が人生でやりたいことが「ゆっくり時間を味わうこと」なのだと気づいたのだ。

私が、ゆっくり時間を味わうために、地球に生まれてきたのだとしたら。

あらゆることが自分に許されているような気がした。

 

ゆっくり時間を味わうこと。そんなの今すぐここで、一人でできてしまう。

それなら、焦って婚活する必要もない。

仕事で評価されなければと、あくせく働かなくてもいい。

全く実用的ではなさそうな本を、好きなだけのんびり読んでいれば、私は幸せな人生を送れるのだ。

天国じゃないか♡

 

気づいてからは、読みたかった本も集中して読めるようになった。

大人になって集中力が下がったのだと思っていたが、きっと色々と余計なことを考えてしまっていたのだ。

こんなことをしていて何になるんだろう、とか、そういうこと。

何にならなくてもいいのだ。だって私の幸せは、すでに今ここにあるのだから。

本の虫だった子供時代の私が戻ってきた気がする。おかえり、私♡

 

そもそも私は何に追われていたのだろう、勝手に。

これからは心ゆくまで、ゆっくり、たっぷり、極上の時間を味わっていきたい。

そのために、頭をからっぽにして、色んな思い込みやしがらみを丁寧に外していこう。

そんな人生を模索するブログ。

からっぽで生きる

自分で自分のことを割と優れた人だと思っていた。

頭が良くて、合理的な考え方を持っていて、成長意欲があって、思いやりもあって。

でもそういうものを、捨ててみようと思った。

 

頭をからっぽにして。

私は、どう人生を楽しめるだろう?

そんなことを、文章にしてみようと思ってブログを始めます。